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求められるのは農法ではない

食に関心がある人の思いはどこにあるのだろうか?

関心が無い人は情報不足なのか、それどころではないのか
無関心を通しているのか、知っても横を向いているのか?
私は関心が無い人の事などどうでもよかったのだけれど
最近そう思わなくなってきているところがある。
関心を持たなければ危険かもしれない食というのは
異常ではないかと思い始めたからだ。

今あらゆる情報が氾濫する時代にそもそも食がおかしいと考えること自体おかしい。
今の日本食べるものはどこにでもある。
金さえあればいつなんどきでも食べられる。
法律で危険な物は管理されていていつでも食べられるものは
常に安全であると思っているからこそ何も考えないで食べている。
その前提があってこそ食べられる。
だからこそ分業が成り立っているのだろう。

願わくば、何も考えずにいても安心して安全な物を食べているという環境であってほしい。

ではその前提が崩れているとしたらどうするのか?
その情報を皆が知っていたらどうなるのか?

どこかの国を見ればなんとなく判るかもしれない。
その判断は今ここでやれる事ではないから放置(笑)

関心がある人のことが問題
何故関心を持ったか?関心を持っているのか?

関心を持った何かしらの原因があるはず。
その原因が無ければ関心を持つ必要もないからだ。
原因は情報かもしくは体験
何かに不安を持つから食に関心を持ったのであろう。
もしくは生きるに害と考えるからか。

何も考えないと食は安全ではないと思う人が出てきている。
そういう関心を持つ人もいる。

もうひとつ
食べる事が好きで、美味しいものを求めて関心がある人がいる。
その部分を追求していけば、人間の感覚に及ぶ。
食べる事が好きから食べる人と食べるものを料理する人がでてくる。
料理する人は食べる事から食べてもらう事が好きになっているのだろうか?

その感覚には安全も安心も関わっているのだろうか?

人は食べる事で生きていられる。
食べるために直接間接に動く。
生きるための意義という部分にはここでは触れないが
そういう風に考える事が出来るのも生きているからこそで
食べる事、食べていける事は無くてはならない事である。

そういう大事な物に不安が出てくるとすれば
不安を無くしたいと思うのが普通であろうし
そういう行動に出るのもあたりまえのことか。

そういうものが欲しい人は何を求めているのだろう?
安全で安心して食べられる美味しいものではないか?

食に関心がある人が求めるのはそこに向かうような気がする。

ではそういう求められるものはどうやって生産されてくるのか?
今ではたくさんの方法があってどれがいいのかよくわからない。
そこでしかたなく生産方法での区別をつけているにすぎない。
それぞれの主張を知って納得して求める事になる。
生産側はその方法論で売る事に必死になる。
安心で安全なものはどうやって担保するのだろう?

求められるのは方法ではないのではないか?
求められているのは生産方法ではなく
安心して食べられる安全な美味しいものであることを
生産者は理解しているのだろうか?

生産する人の思いがどこにあるのかを知ることが重要かもしれないと思う。

さらに整理して考えると、見た目で解らない食の中身の性能をわかるようにすることが必要かと思う。
料理のレシピにでてくるカロリー表示みたいなもの。
安全の数値化
なかなか難しいのだけれど、向かわねばならないだろう。

生産者であるからこそ言う。
方法論にしのぎを削るのならば、その力を消費者の思いに向けるようにしてはどうか?
視野が広がっていくかもしれない。

「安全が担保できるならどんな方法でもいい」
私のセミナーでいつも言っているフレーズだ。
担保出来ないから農薬は嫌いだし、肥料も使わないだけ。
自然栽培からチャレンジになってきたのは
その方が食べる人に良いと判断しただけの事。
良いものを追いかける姿勢を貫いただけのことなのだ。







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